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北國新聞の月刊誌 「アクタス」 に被災家庭が載りました。
■「助けに来て」仙台の友からSOS
<内灘の遠山さん、17時間の救出行>
内灘町ハマナスー丁目の経営コンサルタント遠山宣丞さん(58)は車で東北へ向かい、仙台市で被災した友人一家6人を連れ出した。
混乱する道路状況、ガソリン不足、大雪。多くの困難が待ち受ける中、遠山さんを突き動かしたのは、「大切な友を救いたい」という切なる思いだった。
★「胸ぐらをつかまれたよう」
遠山さんの旧友の坂田和代さん(51)仙台市は、地震発生時、仙台市内の会社で仕事をしていた。テーブルの下に隠れたが、揺れが激しくなり、置き物や大型テレビが目の前を飛び、周囲から叫び声が聞こえた。坂田さんは「胸ぐらをつかまれて強く揺さぶられているようだった」と振り返る。
窓の外を見てさらに驚いた。近くにある東北新幹線の高架が音を立ててきしみ、電信柱と電線が絡むように揺れ動いていた。地震が発生して約2分後、何とか立ち上がって屋外に逃げ出した。
自宅が海岸沿いにある同僚の何人かは帰宅途中で津波にのまれ、車ごと数百メートルも流されたという。ただ、車のガラスを割って社外に逃げ出し、近くの建物にしがみつくなどして、いずれも一命を取りとめている。
★生きた心地せず
坂田さんの自宅は仙台市内の山側にあり、津波に巻き込まれずにたどり着くことができた。自宅ではゆうき長男裕煕さん(16)が倒れたたんすとベッドのすき間に閉じ込められていた。長男を救出し、2人で近くの小学校に避難した。
そこで夫敏明さん(51)、長女瑞季さん(14)、次女絢香さん(12)、次男康雅君(11)と合流でき、一晩を過ごした。
翌朝、一家は自宅に戻ったが、家はいつ崩れるか分からない状態だった。コンビニに向かうと、水や食料を求める人が長蛇の列をなしていた。ガソリン不足も深刻で、給油所は10リットルの整理券をもらうのに3日並ぶ状況だった。3月13日夜、ようやく電話がつながるようになり、仕事をきっかけに20年来の親交があった遠山さんに家族全員の無事を連絡した。
友人の身を案じていた遠山さんは「よかった」と繰り返した。
しかし、震災の怖さはここからだった。水や食料、ガソリンの不足に加え、電気・ガスの停止、真冬のような寒さ、頻繁に起こる震度5級の余震、さらに、ラジオから流れる原発事故のニュース、容赦なく降りかかる困難に、傾きかけた家で過ごす坂田さん一家は生きた心地がしなかった。
★憔悴しきった姿に
15日夜、俊明さんは遠山さんに電話を掛け、現状を伝えて「子供たちだけでも預かってほしい」と助けを求めた。遠山さんは「明日は大事な仕事があるから、終わったらすぐに向かう」と答え、遠山さんは電話を切った。数分後、今度は坂田さんから電話が掛かってきた。「明日はどうなるかは分からない。すぐに助けに来て」
人に弱みを見せたことのなかった坂田さんの悲鳴にも似た声を聞き、遠山さんは意を決した。「行くしかない」夜中のうちに準備を整え、翌16日午前9時・妻玉希さん(57)とミニバンに乗り込んで出発した。坂田さん一家は高速バスで山形県鶴岡市までは行けるとのことだった。
遠山さんはガソリンの販売規制に悩まさなれながら、ひたすら北を目指した。
16日午後4時に到着したJR鶴岡駅は被災者でごった返し、遠山さんは大声で名前を呼びながら坂田さんを探し回った。
ようやく坂再会した時、坂田さん一家は着の身着のままで憔悴しきっていた。
「無事で良かった」。遠山さんは涙を浮かべた。坂田さんは「あの時、遠山さん夫婦が神のように見えた」と振り返る。
内灘町に戻っててきたのは、明けて17日午前2時ごろだった。
★住民の善意が勇気に
遠山さん方は海岸に近く、坂田さん一家は、数日間は津波の恐怖をぬぐえずに過ごした。子供たちはエアコンの風で観葉植物が少し揺れただけで「地震だ」と声を上げ、坂田さんはスーパーなどに行っても必ず避難口を探してしまう。敏明さんも「自分の鼓動すら地震に感じてしまう」という状態に陥っており、まともに眠ることができなかった。
そんな坂田さん一家を勇気付けたのが地域住民だった。一家のことを知るや、米袋や毛布、布団、古着、日用品などを次々に届けていった。中には「内灘の伊達直人」と告げ、米と刺身の盛り合わせを置いていった人もいたという。
話を伝え聞いた町外の人たちからも食料品などが寄せられた。坂田さん夫婦は「初めて来た土地でこんなに温かくしてもらえるとは思わなかった」と目を潤ませる。これに対し、坂田さんと子供たちは感謝の気持ちを込めた色紙を数十枚制作し、送り届けた。瑞季さんは「少しでも恩返しをしたいと思った。それに、書いていると少し気が紛れた」と話す。
★「陰で泣いている」
子供たちにも笑顔が戻り始めた。遠山さんの3人の息子は、坂田さんの子供たちに少しでも元気になってもらおうと、勉強を教えたり一緒に遊んだりした。絢香さんは「ずっと震えが止まらなかったけど、少し安心できるようになった」とほほえむ。
坂田さんの子供4人は4月から、金沢市内の小中学校などに通い始め、一家は同市内の借家に移り住んだ。ただ、遠山さんは子供たちの心境を推し量る。
「普段は元気に振る舞っているが、陰で泣いていることもあった。頻繁に仙台の友達とメールをやりとりする姿を見ても、帰りたいに違いない。それでも黙って金沢で暮らすことを受け入れたのは、震災の恐怖を目の当たりにし、向こうで暮らすのが難しいことを肌で感じているからではないか」
遠山さんは子供たちのけなげな姿に、できる限り支援を続けたいとの気持ちを新たにしている。
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