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鈴木史朗さん(フリーアナウンサー)

命名は赤ちゃんの一生を左右します。両親や家族との相性バランスが運命を大きく決定します。バランスの良い命名によって赤ちゃんの運勢を良くし、親子の相性までも考えた命名方法を紹介します。バランスの良い改名によって本人の運勢を良くし、親子の相性までも考えた改名法を紹介します。バランスの良い改名によって本人の運勢を良くし、親子の相性までも考えた改名法を紹介します。


●鈴木史朗さん(フリーアナウンサー)

■鈴木史朗(すずき・しろう)さん

フリーアナウンサー
1938年、京都府生まれ。早稲田大学法学部卒業後、TBSへ入社。退職後もフリーアナウンサーとして、バラエティー番組出演やナレーション、CMなどで活躍。歌手では「想春譜」など3枚のCDを発表している。孫の世話が「人生で一番幸せ」と話す。

 

■鈴木史朗(すずき・しろう)さん

■戦争に負けて中国から日本へ引き揚げる

戦前、父が中国・北京で貿易会社を興し、2歳で中国へ。生活は日本の敗戦を機に一変。父は財産を没収され、スパイ容疑で拘束された。7歳の時、日本に引き揚げるため、4歳と3歳の妹の手を引き、自分も荷物を背負いながら、母と百キロ以上を歩き通した。「日本には希望があるという思いと、『長男で日本男児だから、妹2人をしっかりみろ』という母の言いつけで頑張れた。自分を信じるしかなかった」

京都の親類宅に身を寄せたが生活は貧しく、勉強も遅れていた。陸上部主将だった中学2年の時には腸閉塞(へいそく)に。これを、元軍医が麻酔なしで開腹手術した。あまりの痛さに悲鳴を上げ、ビンタされて気絶。術後はショックで水も受け付けず、2か月間寝たきりになった。鼻の穴から入れた太いゴム管で栄養をとるという苦しさも経験した。


■アナウンサーを目指した

そんな生活の中で得た自信が、アナウンサーの原点だ。中国で覚えた標準語は京都で一目置かれ、少年合唱団では声が評価された。努力して成績を上げ、小・中と生徒会長を務めると、人前で表現する喜びも知った。玉音放送の進行役を務め、ラジオ番組「話の泉」の司会者でも知られるNHKの和田信賢さんの著書を読み、「人間の修養を積んだ者が人前に出るべきだ」という一文に感銘を受けて、アナウンサーを志した。
■いさんでTBSへ入社したけど

勇んで入社したTBSでは、当初から冷遇された。当時の上司が軍隊にいたころ、その上司をいじめた軍曹に容姿や声がそっくりだったからという。与えられた仕事は、時報や生CMなどの雑用的な仕事ばかりだった。

「クヨクヨもしたけど、家に帰ったら、娘の顔を見て鼻歌を歌うことで気持ちを切り替えていた」

■配置転換めげなかった

入社6年目にはついにアナウンス部から出された。ディレクター、著作権担当、社会部記者……。次々に部署が変わり、そのつど一から仕事を覚えたが、めげなかった。

「格言が大好きで、不撓不屈や臥薪嘗胆(がしんしょうたん)といった言葉にずいぶん助けられた。また、孤独を恐れずにマイペースを貫いた」。苦労が認められ、アナウンサーの仕事に復帰したのは45歳の時。50歳を過ぎてニュース番組のメーンキャスターとなった。「夢を捨てなければ達成できるんだと、本当にうれしかった」

若い世代にはこう呼びかける。「いい夢を持ち、実現すると思ってほしい。それがいかに力になるか。僕の体験的実感です」

「不撓(ふとう)不屈。いいですね。大好きな言葉です」。何度も同じ言葉を繰り返した。バラエティー番組で見せる「きまじめな人」というイメージ以上に、この言葉が似合う、闘い続けてきた道のりだった。


(読売新聞ー小林佑基)

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■青雲の志を掲げて、20年以上も冷や飯を食わされた・・・

鈴木史朗さんのアナウンス姿を見るに付け、そのまじめさからは過去にそんな苦労があったとは想像もつかないのであるが、それにしても、20年以上も冷や飯を食わされ続けてよくも腐らなかったなあと関心を通り越して、あきれてしまうのである。

どんな人でも、「石の上にも三年」というが、鈴木史朗さんの場合は苦節20年以上というわけですから、普通の人ならばとっくの昔にあきらめるか、やめるかどちらかだと思う。それを貫き通したということの方が、驚きであり、現代の転職を繰り返す世代からは「アホ!」といわれそうである。

どうしてそんなことができたのだろうか?
その秘密を知ってみたいものである。
そこで、鈴木史朗さんを解体してみたいと思う。

その鈴木史朗さんの運命式を見てみよう!

<鈴木史朗さんの運命式>

27 17 22

23 32  9

28 15 19

<鈴木史朗さんの流運>

14 14 12 16 14 14 12 16

11  6 13 13 11 15 13 13

◆鈴木史朗さんはかわいそうな運命式

鈴木史朗さんがどうしてかわいそうな運命式かというと、それはこの運命式にはついてまわる悪い運勢があるからである。
何かというと、仕事運が基本的にしなくてもいい苦労を背負わされるという運勢を持っているからだ。

だから、こういう運命式は「赤ちゃんの名前」では絶対につけないことにしている代表的なよくない運命式なのである。

ということはどういうことかというと、一生懸命努力して頑張るとちゃんとした地位や責任を持つことができるが、それが今度は仇となって大変な苦労を返って背負い込むことになり、その苦労から逃げられないという状況に追い込まれるようになる。

それに、もしこの苦労から逃げてしまえば、今度は落伍者として自分が生きる道を見失ってしまうことになる。
また、一生懸命先を変えたとしてもまた同じような苦労を背負い込んでしまうから、どっちらにしても本人には十字架のようなものなのである。

だから、生きながらにして磔の刑にあったようなものなのである。進むも退くも地獄ということになる。

◆主体性のない社会的性格

どうやって乗り越えて、初心を貫徹できたのだろうか?
その秘密は、鈴木史朗さんの社会的な性格にある。
なんとクラゲのように柔軟性はあるものの主体性はというと、この運命式からは全く感じられないということになる。

いわれれば、「ごもっとも」「はい、そうです」

ということになって、どんな状況にも対応できるということになる。だから、上司は使いやすい奴ということになり、人がやらないような嫌な仕事は皆押しつけることになるのだ。
ところがこれに従容として従い20年以上も不本意な仕事に従事してきたことになる。

どうしてそんなことが可能になったのだろうか?
その秘密は、ながーい戦略性を立てることができたことと、基本的に楽天家でもあるというところだ。そこがこの試練を乗り越えることができるようになった秘訣でもある。もしどこかでこの境遇を打破するためにつまらない行動を起こしていたなら、アナウンサー鈴木史朗はいなかったかも知れないということだ。

柔軟性があって、主体性を示さず、人に抵抗感を与えず、時を待つことのできる先見性を持っていないとできないことだ。


◆鈴木史朗の流運と各人性

ここで、鈴木史朗の流運から来る人生を見てみようと思う。
<鈴木史朗さんの流運>

14 14 12 16 14 14 12 16

11  6 13 13 11 15 13 13

ここで鈴木史朗さんの流運は、本体の主体性のなさなどとは打って変わって、なかなかいい運勢を持っているということがいえる。だから、鈴木史朗さんの外的な運勢に対して、精神的な世界や心の世界は相当しっかりとしていたということがいえる。

★15才くらいまでの流運

14 14

11  6

中学生を終わるくらいまでは、とにかくこの運勢からいくと希望を持ち、多くの人と交わる中で運勢をつかむことができた。精神的には充実したときでもある。
……☆☆戦争に負けて中国から日本へ引き揚げる

戦前、父が中国・北京で貿易会社を興し、2歳で中国へ。生活は日本の敗戦を機に一変。父は財産を没収され、スパイ容疑で拘束された。7歳の時、日本に引き揚げるため、4歳と3歳の妹の手を引き、自分も荷物を背負いながら、母と百キロ以上を歩き通した。「日本には希望があるという思いと、『長男で日本男児だから、妹2人をしっかりみろ』という母の言いつけで頑張れた。自分を信じるしかなかった」

京都の親類宅に身を寄せたが生活は貧しく、勉強も遅れていた。陸上部主将だった中学2年の時には腸閉塞(へいそく)に。これを、元軍医が麻酔なしで開腹手術した。あまりの痛さに悲鳴を上げ、ビンタされて気絶。術後はショックで水も受け付けず、2か月間寝たきりになった。鼻の穴から入れた太いゴム管で栄養をとるという苦しさも経験した。

……☆☆アナウンサーを目指した

そんな生活の中で得た自信が、アナウンサーの原点だ。中国で覚えた標準語は京都で一目置かれ、少年合唱団では声が評価された。努力して成績を上げ、小・中と生徒会長を務めると、人前で表現する喜びも知った。玉音放送の進行役を務め、ラジオ番組「話の泉」の司会者でも知られるNHKの和田信賢さんの著書を読み、「人間の修養を積んだ者が人前に出るべきだ」という一文に感銘を受けて、アナウンサーを志した。

★30才くらいまでの流運

12 16

13 13

この時期は早稲田で勉強しながら、青雲の志を実現しようと頑張ったときであり、またTBSに入った後も自分は何でもできるという強い自信に裏打ちされた行動ができるようなときであった。だから、どんな逆境にも負けない心の強さは持てるときでもあり、それを形にすることもできたときである。

しかし、社会に出たこの時より仕事運の魔の手は鈴木史朗に迫っていたといえる。

……☆☆いさんでTBSへ入社したけど

勇んで入社したTBSでは、当初から冷遇された。当時の上司が軍隊にいたころ、その上司をいじめた軍曹に容姿や声がそっくりだったからという。与えられた仕事は、時報や生CMなどの雑用的な仕事ばかりだった。

「クヨクヨもしたけど、家に帰ったら、娘の顔を見て鼻歌を歌うことで気持ちを切り替えていた」

★30才から60才くらいまでの流運

14 14 12 16

11 15 13 13

この時期は、鈴木史朗の運勢の中で本格的に魔の手が伸びて、自分でもどうにもならない世界に入ってしまっていることに気がつくときでもある。しかし、ここからが問題である。自分の運勢に逆らわないで、しかし決して希望や自信を失うことなくすすめたのである。それも、運命式の主体性のなさと流運の精神的な強さという矛盾するようなバランスが作り出した業であった。

運命の魔の手の攻撃に従容と従いながらも、初志をあきらめなかったことで、反対に悪魔の方があきらめて降りてしまった。そのことが晩年の「大願成就」につながるのである。

……☆☆配置転換めげなかった

入社6年目にはついにアナウンス部から出された。ディレクター、著作権担当、社会部記者……。次々に部署が変わり、そのつど一から仕事を覚えたが、めげなかった。

「格言が大好きで、不撓不屈や臥薪嘗胆(がしんしょうたん)といった言葉にずいぶん助けられた。また、孤独を恐れずにマイペースを貫いた」。苦労が認められ、アナウンサーの仕事に復帰したのは45歳の時。50歳を過ぎてニュース番組のメーンキャスターとなった。「夢を捨てなければ達成できるんだと、本当にうれしかった」

若い世代にはこう呼びかける。「いい夢を持ち、実現すると思ってほしい。それがいかに力になるか。僕の体験的実感です」

「不撓(ふとう)不屈。いいですね。大好きな言葉です」。何度も同じ言葉を繰り返した。バラエティー番組で見せる「きまじめな人」というイメージ以上に、この言葉が似合う、闘い続けてきた道のりだった。

◆人生の戦い方

人の一生にこんなすごい戦い方もあるものだということを知って欲しいのである。この頃は、勝ち組だの負け組だのと自分の人生を切り売りするような宣伝ばかりが目につく。結婚にしても、仕事にしても人生のゴールというのは途中経過ではわからないものばかりだ。

そうであるのに、最近の若者は急ぎすぎる人生を送っているような気がする。
鈴木史朗さんのような逆境の中に抵抗をしていないようで、実はものすごい心の格好いい生き方をしている人がいるということである。

人生という評価は自分が下すものなのだ。だから、人に評価を売るような生き方をしない方がいい。
そういえば、歴史上の人物でもそういう人がいた。宗教史では西洋のイエスキリスト、東洋では釈尊がそうである。自らの与えられた使命にそれがどんな逆境でも逃げないで立ち向かい、負けているようで気がつけば全ての人の心の支えになっていたということである。

だから、鈴木史朗さんは今でいう「クールな人」なのだ。




天使の占い・遠山球希

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