いつからが命として扱われるのか?
新聞紙上で「少子化だから・・・」などという記事がいつも目に入ってくる陽になりました。少子化が既成の事実のように受け止められてしまっているような気がします。
本来少子化というのは、異常な状況なのです。人類はいつ如何なる時でも子供を必要としてきましたし、子供を共通の宝としてきたのは、洋の東西を問わず同じことだと思います。
ここにおかしなことがおこっています。少子化と叫びながら、行政がどうもちぐはぐのような気がします。子供を産んだあとの支援というものを行政は強調します。もちろんそれは重要なことに違いありません。しかし、問題は、多くの子女が誕生することが将来の希望になるのではないでしょうか?それにしては、生む前の段階での行政のサポートというのは全くないのです。
生むべきか?それとも・・、生みたいけどうめないなど複雑な現代人が抱える多くの問題は、誰も目を向けません。かえって性の反乱が、生む命への混乱を引きおこしています。「授かった命」そのことを突然に考えても結論がすぐに出るわけはありません。誰がサポートすべきなのかということです。ここら辺はボランティアに頼っているのが現状ではないでしょうか?
行政は命の出発ということを、真剣に「命の教育のあり方」に取り組むべきではないかと思います。医学的に法律的には、命の出発は妊娠22週未満の中絶を条件付きで認める母体保護法をもとに、「胎児が母体外で生きることができない期間中は」命の出発ではないとの味方もあるし、受精した瞬間からが命の出発であるという見方や、死産届けが必要となる「妊娠12週以降」が命の出発という見方もあります。
人間の人情として、母親の心情としては、法律や医学的なこと以上に当然受胎した瞬間からが「命を宿した」という感覚ではないでしょうか!
命は自分自身の分身として体内に宿るものだからこそ、命は愛の形なのです。
2005年の出産数は約106万2千人、中絶の報告は28万9千件報告されています。この28万9千件は命の出発をしていなかったのでしょうか?そのことを考えてみる価値は十分にあると思います。
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