●赤ちゃん命名の不思議(姓名判断)


●命名に物語がある人はひと味違う・伊達政宗


親が子供に関わりを持てる最初のチャンスが「命名」なのである。(姓名判断)
だから、その命名にはことさら思い入れがあるのが普通なのだ。
それを、いい加減に扱えば、やはり子供に対する責任や愛情がないと思われても仕方がない。
そこでは、親子のつながりをしっかりと考えた命名が必要なことはいうまでもない。

彼こそは戦国乱世、下克上の中にあって、教育こそ生存と人生の勝利、家系の存続を可能ならしめることを、私達に教えてくれた人物なのです。(山岡荘八著伊達政宗参照)

○1567年8月3日、米沢城内において、城主伊達輝宗の第一子として生まれます。母は山形の城主、最上義守の長女、義姫です。

○義姫、結婚の動機、「はい、嫁いで一子を挙げましたら、その子に輝宗の首級を添えて戻ってきます。」

○この結婚は、伊達の家臣、中野宗時が最上を通じて逆心の想いを持って結んだ縁組なのです。

○輝宗夫婦は、亀岡文殊堂に願をかけて、祈祷を頼みます。ここには羽黒山の行者、長海法印が住んでいます。
(何とぞ、文武の才と忠孝の誉れある男児をお恵み下さいますように。)

○こうして義姫の夢枕に白髪の僧が立ち、宿を借りたいといいます。
どうぞお泊まり下さいというと一本の幣束を渡し、これを大切に胎育するようにといって消えたのです。
この幣束のことを修験道では梵天と呼びます。
従って生まれた子は梵天丸と名づけられたのです。
そしてこの白髪の僧は、役の行者以来の神通力を得た生き仏、万海上人であったというのです。
従って梵天丸は、万海上人の生まれかわりになったのです。
この万海上人は片目でありました。

○こうして英雄伝説をしくんで、家臣一統の期待を一身に受けさせ、この英雄伝説の子供を人質にして最上へ帰ろうというのですから、義姫の計画はすさまじいものでありました。

○しかし、人智と自然の摂理では人智が負けるのです。
この後義姫はすぐに第二子を腹んで、人質計画は棚上げになってしまい、夫輝宗は梵天丸を万海上人の生まれ代わりと信じて、すぐに梵天丸の教育に取り組んでいきました。
乳母、二人の小生、儒学の師、禅学の師虎哉宗乙、武道、そろばんの師、といった具合に英才教育をしていったのです。

○後に羽黒山の長海法印は、護摩祈祷の中に本当に万海上人が現れたと、虎茸禅師に告白しています。

○もともと、人間は無限の可能性の中に、どんな人も生まれてくる。
ただ、生まれてくるのに、環境、位置、立場、事情などが種々異なるだけなのです。

どんな中にあっても、そこにおける教育で人の善悪、優劣が決まってくるだけなのです。

正しい知識を与え、それを生活の中に、知恵として生かすことができれば、立派に人は神性、仏性を備えた人格者になってゆくのです。
そういう意味では、政宗はすばらしい人間環境の中に誕生してきたといっても過言ではありません。
政宗という人物は世に出るべき人物として、成長していったのです。
乳母は一族の増田貞隆の妻政岡

○無類のお人好で、信心深い輝宗は、義姫の計りごとをそのまま、まともに信じ、行動していったのです。
義姫を疑うことになく、自分をしたって嫁ついできたものと信じ、そのように信頼して夫婦関係を結んできたのです。

○義姫も人間である以上、よほどの恨み、憎しみがない限り、実家大切の為に、良人を簡単に裏切るような行動は、一度情を通じてしまうと簡単にはできないものです。
それに、義姫には、結婚の動機が悪い為、その胸に計りごとが隠されている為、輝宗の前に出れば、必要以上に良妻ぶることになります。
もし、輝宗が良くない夫であれば、仕事を行いやすかったかも知れませんが、輝宗は、あまりに純粋真心から信じてくれたので、これには、義姫も悪魔でない限り、恨み、憎しみを持って裏切ることなど思いもよらず、しばらくは、理想の夫婦を演ずることになるのです。

○人間は不思議なもので、理想の夫婦を演じていると、いつの間にかそのようになってしまうのである。
特に、義姫の輝宗に恨みがあるわけではないのですから、なおさらのことです。
こうして、夫婦が妊娠していくと、かねてからの計画通り、英雄づくりが始まっていくようになるのです。

○この万海上人うまれかわり伝説も、輝宗は本当に信じてしまったのです。
そして、その為にあらゆる準備を用意周到にしだしたのです。
こうして、尚更、義姫がつけ入るすきまなどみじんもなくなってしまったのです。

○義姫の結婚の動機も恨みでないことは、その根底には、この戦国の苦しみを解放し、安定した平和の国にしたい、その為に、仁智にすぐれた強い武将が欲しいとは、本心で願っていたに相違ないのです。
なぜならば、当時、家にしばられながらも、このように戦略的に考えられる女性は、よほどすぐれていたと思うからなのです。

○こうして梵天丸が誕生すると、梵天丸は、自分の手から離れて、周囲の絶対なる信の上に育てられることになり、即ち、梵天丸は、動機の曖昧な母親の手から、絶対なる信の上にたった乳母の手に渡されて、育てられていくようになるのです。
その上に、義姫は、第二子をすぐにはらんでしまいました。
そして、産まれた竺丸は、誰も関心を寄せない普通の子になってしまったのです。

○これから義姫の苦悶と悩みが始まったのです。
何で政宗が万海上人の生まれ代わりであるものか、この竺丸とて同じ人間なのに、人間的には何も違いがないではないか、なのにこの差は何なのだ。
義姫の懐疑と自己嫌悪、憂欝は限りなくひろがり、しかしまた、不思議な誕生をした政宗には、何か心にはひっかかるものがあって、整理のつかない日々が続くのです。

○そこへ梵天丸の庖瘡事件が起こります。
この当時、5才の年齢で庖瘡にかかれば、助かる見込みはほとんどなかったのです。
義姫は、これは遂に神罰があたったと思ったに違いないのです。
しかし、文殊堂の鳥海法印は、万海上人がついているので心配はいらぬといいます。
義姫は、万海上人など、自分がつくった作り話などとはいえず、混乱してしまっていました。

○ところが梵天丸は、まさに万海上人の生まれ代わりのように、片目になって、生命は助かってしまったのです。
これによって誰の目にも梵天丸が万海上人の生まれ代わりということが、事実となって明らかになってしまったのです。

○当の義姫自身も、これは本当に神仏が顕現したのではないかとも一時は考えるようになっていました。
そこで、義姫は、梵天丸を呼んで次のような話をしたのです。
1個のブドウの実をとりだして、「これはこなたの左の眼玉じゃ」「こなたは、この木に登って落ちたのじゃ、落ちるとき途中で枝にこの眼がひっかかた。
母上、眼が出ましたと持参した故、今日まで預かっておいたが、もう返すのはやめます」といって食べてしまったのです。
このことを文殊堂の長海法印は次のように説明しています。
大日如来が現れて、“先祖代々の罪業によって万海と同じように片目だけはわしがしかと預かりおくといわれました。
"その眼を母御が食べてしまわれたのは、伊達先祖代々の罪業を、我が子に代わって母が食べて背負ったということなのです。
これで、梵天丸はきれいさっぱりとなり、この地にその使命を果すことができるというのです。

○こうして、梵天丸は、先祖の罪業のない立場に立って自分を見つめるという長者の権利を相続した者の基本的立場に立ったのです。
これから以後、梵天丸の母代わりを政岡(乳母)が行い、梵天丸を長者の権利者として、様々な人が教育を行うようになるのです。

○義姫は、伊達家代々の罪業を背負うことによって、その影響は、竺丸に現れるようになります。

★それでは、伊達梵天丸の運命式を見てまいりましょう。(姓名判断)
<伊達梵天丸の運命式>
25 18 33
13 36 27
24 18 30

確かにこの運命式を見ていくと、一国の主にふさわしい名前かというと、どうもそうではないように思える。
しかし後に元服して、伊達政宗になるとさすが伊達家中興の祖の名前にあやかっただけのことは出てくるのである。
しかし、それもこの梵天丸の時の教育が大きく影響しているのであるから、「命名伝説」と彼にかけられた教育は大きく花を咲かすようになるのである。

元服する前までの梵天丸では、彼の家庭運が大きく影響することになる。
確かに頭は切れる子であったに違いない。
思慮深くもある。しかし何分にも生まれがよい性もあるが人がよすぎるし、周囲に影響されて流されやすい。
戦国武将としては、これでは凡庸と考えてもいい運命式なのである。

しかし、ここが教育の恐ろしいところなのである。
梵天丸に付けた師匠が素晴らしい。当代一流の人物である虎哉宗乙である。
彼は美濃の国に生を受けた臨済宗妙心寺派の僧で、虎哉の師は武田家滅亡の折に焼き討ちの中で”心頭滅却すれば火もまた涼し”の有名な言葉を残した快川紹喜(かいせんじょうき)なのである。

虎哉は快川の門弟のなかで下野国雲岩寺の大忠禅師と共に、天下の二甘露問とうたわれた名僧として既に高名であった。その人物を招へいするにあたって、父輝宗は”資福寺”というお寺まで新しく建設して、虎哉を迎えたのである。

一目彼を見た虎哉の教育方針は「強情とへそ曲がり」なのであった。
禅宗に基礎をおいたこの教育方針は、梵天丸を鍛え上げた。梵天丸がこういう教育方針に素直に従えたのは、彼の愛情運によるところが大きい。
梵天丸は、性格はどちらかというとやさしく知的な面が強かったが、愛情運は男らしさを求めていたからである。

虎哉は無理矢理に梵天丸を教育したのではない。
自分の頭でしっかりと考えさせたのである。
そして自分の心が納得するのをしっかりと待っている。
こういう方針は実に梵天丸の性格にも合っていたのだ。
彼の性格は知的だが内面をしっかりと見つめるという世界をもっていたからなのである。
こういう基礎を積み上げた後に、15歳で元服して「伊達政宗」が誕生するのである。
それでは、梵天丸から政宗に変わって彼の運命式はどのように変化したのであろうか?

★伊達政宗の運命式を見てみたいと思う。(姓名判断)
<伊達政宗の運命式>
26 18 27
14 35 21
33 17 29

彼の運命式は劇的に変化を遂げてしまった。
まず、家庭内性格から梵天丸のような優しさや人の良さは消え、非常に主体的で親分的、自分の世界が強く頑固な性格へと変貌している。
しかし、本性だけは思慮深さ、反省心をしっかりと残しているのである。
仕事運もしっかりと物事を成就していく運勢をもっているし、武将として作戦を考え、リーダーシップを発揮しそれを成就する運勢をしっかりともっているといえるのである。
同時に人気運は、人に対して優しさや真心を伝えようとする世界も併せ持っている。
しかし、彼のエンジンは強力な男気なのである。

虎哉禅師の教育が「政宗」という元服後の命名によって大きな花を咲かすようになるのである。
その後の伊達政宗の活躍はここで述べるまでもなく、多くの読者がご存じのはずである。
彼の持つ運命式が遺憾なく発揮した背景には、彼が受けてきた教育が大きな力を持っていることはいうまでもない。
だからこそ、運命式の花を咲かせるのは教育ということがはっきりとわかるではないか。
政宗のその後の人生を見ても、実にドラマになるよりも面白いほどの波乱に満ちた生き方をしている。
伊達家内部においては母との葛藤の果てに毒殺されそうになることや、その後母と子の和解と恩讐を越えた出会い、秀吉との危機、徳川政権下にあってはキリシタン禁教の嵐など、様々な危機を乗り越えてきたのである。

何故ここで、伊達政宗を取り上げたのかといえば、実に運命式を開花させるには、それだけの教育が必要なのだということなのだ。
その教育は、虎哉禅師のような逸材でなくても、家庭で両親が協力して行うことができれば理想なのである。
そういうためのプログラムとして、「子育て16か条」は開発されたものなのである。

折角素晴らしい命名をしたのですから、その命名の効果を最大限に生かすプログラムはまさにお子様にとっては必須であると考えています。

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